大正の末ごろから昭和にかけては、日本人の名前を考える上で見逃せない2つの出来事がありました。
1つは宮武外骨の「廃姓」宣言です。 彼は、種族という概念が生じたのは利己排他がもとで、家系を重んじるという観念からは差別心ができたと主張し、 新思想家をもって世間に立とうとする者は、この姓氏を廃止すべきであると論じました。
外骨は、「今後、宮武の姓を用いない」と広く公言し、著書の奥付や検印も「廃姓外骨」としていましたが、 昭和2年から東京帝国大学の明治新聞雑誌文庫の主任となるなど、 公的な活動も多くなってきたせいもあり、晩年は「宮武外骨」と署名していました。 しかし、大正末期という時代に姓氏の階級制を指摘し、その廃止を実践したということは他に例がありません。
もう1つが昭和初期に起こった「カナモジ運動」です。 カナモジ運動とは、日常に用いる漢字を段階的に全廃し、将来の日本語表記をすべて片仮名にしようと提唱するものです。 このカナモジ運動を提唱したのは、山下芳太郎で、東京高等商業(現在の一橋大学)を出て外交官となり、 西園寺内閣の主席秘書官を経て、住友商事の事実上の創立者としても知られています。 彼は生涯をこの運動に捧げ、日常はカナ文字を用い、印鑑などもカナに統一していました。 また生まれてくる子にまでカナ名前にしたということも有名で、当時のカナ名前はきわめて異例でした。
遺書もカナ書きであり、また墓にもヨコ書きで「ヤマシタ ヨシタロウ」と刻まれています。 しかし、宮武外骨の廃姓宣言もカナモジ運動も、過激すぎた運動であったためか、 当時は一顧もされなかったとのことです。